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今日の散歩...半島の歴史④ 
- 2019/01/31(Thu) -
 半島の歴史④では、半島内の内部抗争に外国勢力が巻き込まれたケース
である、朝鮮戦争 ( 1950.6.25 ~ 1953. 7.27 休戦協定)について、石平氏
他の著書を引用しながら書いていきます。せっかくの統一の機会を何故
自ら損失するに至ったのか?だけでなく、同じ民族同志、半島史上最大の犠牲者
を出すまで戦争が長引いたのか.....  それは今も繰り返されているようで
既視感一杯の情景に感じます。 韓国人の中には、半島の分断も日本の責任
にしたりしますが、根拠がよく分かりません。


 第二次世界大戦後に高まった朝鮮統一の機運  (引用開始)

 日韓併合後の1910年から45年までの35年、日本統治下の朝鮮こそ
半島史上もっとも安定し、繁栄した時代であったが(それ以前と比較して)
日本の敗戦、朝鮮が<独立>してから半島における内紛と内戦の歴史が
再び始まった。 

 a) 南北分断の背景

 ポツダム宣言(日本の無条件降伏)受諾後、日本の朝鮮総督府は治安維持
などの警察権を朝鮮建国準備委員会にゆだね、半島全体の統治権を朝鮮人自身に
返した。問題は日本降伏後、旧ソ連が8月16日以降、満州から朝鮮半島に
大挙して侵攻し、北緯38度線以北を制圧した。9月初旬にはアメリカ軍が仁川上陸
38度線以南を占領下においた。38度線は日本降伏以前に米ソ両軍が協議し
た結果、米ソ衝突を避けるために引いた軍事境界線である。これが民族分断の
最大の原因であり、朝鮮戦争の遠因でもなった。

 しかし、その後の歴史を見れば民族分断を作り出した唯一の原因が米ソ両軍の
分割占領であったとは必ずしも言えない。 

 ソウル成均館大学イミョンヨン(李 命英)教授は著書(権力の歴史、世界日報社
にて国土分断の悲劇は、朝鮮民族自体の内部がまず分裂していたのであると断じている。
“ 朝鮮の民族主義や共産主義者はみな同じく抗日闘争をしたと言いながら、基本的な
理念と路線の差異の為に共同戦線を構築できなかったばかりか、敵対関係にあったと
いう歴史的事実の中に、1945年の国土分断の民族内的要因を見ることができる。 

 朝鮮半島の運命は、1943年11月米、英、中首脳会議(ルーズベルト、チャーチル
蒋介石)によるカイロ宣言で方向性が示されていた。朝鮮独立の支援を国際的に
公約、後にスターリンも宣言趣旨を認め、朝鮮独立の保証は4大国の共通認識と
なった。
 ただし、終戦後(二次大戦)の一定期間、4大国の信託統治下に置き
<適当な手続きと時期>を経て独立(統一国家)させることがカイロ宣言で文書化
された。この曖昧な<適当な手続きと時期>という表現が問題を発生させる元凶と
なったのである。 

 分割占領後、それぞれの地域でカイロ宣言の定めにしたがって、占領地域
の軍政局、民政局を設置して<信託統治>を開始、1945年12月に米ソ英
3国外相会議が信託統治の終わった後の朝鮮の未来を決める重要な会議となった。
1945年12月27日3か国合意として<モスクワ協定>が発表された。 

① 朝鮮人が独立国家を建設できる条件を作るために朝鮮に民主臨時政府を樹立する。
② 朝鮮の民主臨時政府樹立のため、米ソ占領軍司令部の代表たちで構成される共同
 委員会を設置する。
③ 共同委員会は自らの提案を出し、朝鮮の民主臨時政府と協議する。
米、ソ、英、中による朝鮮の信託統治機関は5年間を期限とすること。

(* 感激時代をご覧になった方は、上海臨時政府を思い出すと思います。現在の
政権も抗日運動(1919年3月1日サミル)をきっかけに樹立された上海政府が
大韓民国の始まりともちあげて、今年は建国100年と騒いでいます。しかし
アメリカをはじめとする、いかなる連合関係国も、モスクワ協定でも、上海臨時
政府は認められていません。戦後の混乱の中、統治能力をもっているとはみなさ
れなかったのが現実。要は占領軍が駐屯して治安を維持している間に、時間を
かけて基盤を築き、統一を果たす機会を与えたという事です) 

 モスクワ協定で示された構想にそって独立と統一を勝ち取っていくのが朝鮮民族の
本来の悲願達成の現実的な道であったのが、この朝鮮の独立と統一を目指す、この協定に
真っ先に反対の声をあげたのが、当事者、朝鮮人だった。 

 b)国土分断の悲劇を生んだ民族内部の分裂

 ソ連占領下の北部では、1945年10月、共産主義者によって組織された
朝鮮共産党北部朝鮮分局が組織され、満州からソ連に行きソ連極東軍将校になった
金日成(キムイルソン)が党の責任書記に就任する。キムイルソン政権の始まり。 

 アメリカ統治下の朝鮮南部は複雑で、1945年8月15日以降、左翼民族主義者が
忠心となってソウルに朝鮮建国準備委員会を作り、総督府と協力しながら治安維持に
あたっていた。9月米軍が占領下におくと、直ちに朝鮮人民共和国の樹立を宣言。
それとは別に対立する右翼民族主義者が、(上海の)大韓民国臨時政府を正統な政府
であると主張、<民族の分裂>はまさにここから始まった。 (引用終わり)

 さらに右翼民族主義者側が左派と建国準備委員会を中傷する情報をアメリカ民生局
に流した(*告げ口外交💦)結果、アメリカ側はこうした朝鮮人の足の引っ張り合い
に巻き込まれ、同じ大韓民国臨時政府のもう一人の主要人物、李承晩(*元両班出身、
併合時代にはハーバード大学でまなぶ。強硬な反日主義者で、後に勝手に李承晩ライン
をひいて竹島を韓国領域にいれてしまった張本人。

 竹島問題:補足事項
(* 1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約では、日本は朝鮮の独立を
承認するとともに、放棄すべき地域に「済州島チェジュ)、巨文島、鬱陵島を含む朝鮮」
が規定され、竹島を日本が放棄すべき地域に含めませんでした。
これに先立つ同年7月、韓国は米国に対し、「日本が放棄すべき地域に竹島を加えて欲しい」
と要求しましたが、米政府は、8月にラスク国務次官補発の書簡で、竹島は朝鮮の領土と
して扱われたことはなく、
また、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られ
ない旨を回答し、韓国側の主張を明確に否定しました
。実際、李氏朝鮮時代に作成
された地図に朝鮮の緯度経度などが表示されていますが、その範囲内に竹島はなかった
という...  何事も都合の悪いことには目をつぶって声高に自己主張する一例..) 

 (引用再度開始)

 モスクワ協定に猛烈に反対したのがこの右派グループだった。5年間の信託統治が
<民族に対する侮辱>であるという理由だった。右派グループは反信託統治運動を展開。
一方左派は賛成の立場で、南朝鮮の中でも分裂、闘争が始まった。
当時の韓国仁川
大学総長、キムハクジュン氏の著書<朝鮮戦争 原因・過程・休戦・影響、論争社>

でこの左右闘争は理念、権力闘争が結合して、テロが動員され、事実上、内戦に近い
様相をみせたと語っている。 あくまで南朝鮮内だけでこういう状態だった。

 こうなると、モスクワ協定の当事国である米ソにとって<朝鮮の独立、統一>を
語るどころではなく、1946年3月20日から5月8日までソウルで米ソ共同員会
が開かれたが、朝鮮人同志の内部紛争に翻弄され、同じ民族の右派、左派にどう対処
するかで米ソが対立、5月8日無期限状態に入った。ここで朝鮮に独立と統一をもたらす
最大の機会が失われたのであった。

 

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